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お釈迦様の教え
仏陀の慈悲
♠仏の心は大慈悲である
♠仏の慈悲は久遠 無限である
♠仏には三つの体がそなわっており人々を助け救う
♠仏のすぐれた徳
♠仏は常に住して生滅しない
♠あらゆる人々はみな仏の子である
♠仏の心は大慈悲である

仏の心とは大慈悲である。あらゆる手だてによって、すべての人びとを救う大慈の心、人とともに病み、人とともに悩む大悲の心である。

ちょうど子を思う母のように、しばらくの間も捨て去ることなく、守り、育て、救い取るのが仏の心である。「おまえの悩みはわたしの悩み、おまえの楽しみはわたしの楽しみ。《と、かたときも捨てることがない。

仏の大悲は人によって起こり、この大悲に触れて信ずる心が生まれ、信ずる心によってさとりが得られる。それは、子を愛することによって母であることを自覚し、母の心に触れて子の心が安らかとなるようなものである。

ところが、人びとはこの仏の心を知らず、その無知からとらわれを起こして苦しみ、煩悩のままにふるまって悩む。罪業の重荷を負って、あえぎつつ、迷いの山から山を駆けめぐる。

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♠仏の慈悲は久遠 無限である

仏の慈悲をただこの世一生だけのことと思ってはならない。それは久しい間のことである。人びとが生まれ変わり、死に変わりして迷いを重ねてきたその初めから今日まで続いている。

仏は常に人びとの前に、その人びとにもっとも親しみのある姿を示し、救いの手段を尽くす。

釈 族の太子と生まれ、出家し、苦行をし、道をさとり、教えを説き、死を示した。

人びとの迷いに限りがないから、仏のはたらきにも限りがなく、人びとの罪の深さに底がないから仏の慈悲にも底がない。

 

だから、仏はその修行の初めに四つの大誓願を起こした。一つには誓ってすべての人びとを救おう。二つには誓ってすべての煩悩を断とう。三つには誓ってすべての教えを学ぼう。四つには誓ってこの上ないさとりを得よう。この四つの誓願をもととして仏は修行した。仏の修行のもとがこの誓願であることは、そのまま仏の心が人びとを救う大慈悲であることを示している。

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♠仏には三つの体がそなわっており人々を助け救う

仏には三つの身がそなわっている。一つには法身、二つには報身、三つには応身である。

法身とは、法そのものを身とするものである。この世のありのままの道理と、それをさとる智慧とが一つになった法そのものである。

法そのものが仏であるから、この仏には色もなく形もない。色も形もないから、来るところもなく、去るところもない。来るところも去るところもないから充満しないところがなく大空のようにすべてのものの上にあまねくゆきわたっている。

人が思うから有るのではなく、人が忘れるから無いのでもなく、人の喜ぶときに来るのでもなく、人の怠るときに去るのでもない。仏そのものは、人の心のさまざまな動きを超えて存在する。

仏の身は、あらゆる世界に満ち、すべてのところにゆきわたり、人びとがふつう持っている仏に関する考えにかかわらず永遠に住する。

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♠仏のすぐれた徳

仏は五つのすぐれた徳をそなえて、尊敬を受ける。すぐれた行い、すぐれた見方、すぐれた智慧、さとりの道を明らかに説くこと、人びとをしてよく教えのとおりに修めさせることである。

また仏には八つのすぐれた能力がある。一つには、仏は人びとに利益と幸福とを与える。二つには、仏の教えはこの世においてただちに利益がある。三つには、世の善悪正邪を正しく教える。四つには、正しい道を教えてさとりに入らせる。五つには、どんな人をも一つの道に導く。六つには、仏にはおごる心がない。七つには、言ったとおり実行し、実行するとおりに語る。八つには、惑いなく、願いを満たし、完全に行をなしとげる。

また仏は、冥想に入って静けさと平和を得、あらゆる人びとに対して慈しみの心、悲みの心、とらわれのない心を持ち、心のあらゆる汚れを去って、清らかな者だけが持つ喜びを持つ。

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♠仏は常に住して生滅しない

月が隠れると、人びとは月が沈んだといい、月が現われると、人びとは月が出たという。けれども月は常に住して出没することがない。仏もそのように、常に住して生滅しないのであるが、ただ人びとを教えるために生滅を示す。

人びとは月が満ちるとか、月が欠けるとかいうけれども、月は常に満ちており、増すこともなく減ることもない。仏もまたそのように、常に住して生滅しないのであるが、ただ人びとの見るところに従って生滅があるだけである。

月はまたすべての上に現われる。町にも、村にも、山にも、川にも、池の中にも、かめの中にも、葉末の露にも現われる。人が行くこと百里千里であっても、月は常にその人に従う。月そのものに変わりはないが、月を見る人によって月は異なる。仏もまたそのように、世の人びとに従って、限りない姿を示すが、仏は永遠に存在して変わることがない。

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♠あらゆる人々はみな仏の子である

この仏はすべての人びとの父母である。子が生まれて十六か月の間、父母は子の声に合わせて赤子のように語り、それからおもむろにことばを教えるように、仏もまた、人びとのことばに従って教えを説き、その見るところに従って相を現わし、人びとをして安らかな揺らぎのない境地に住まわせる。

また仏は、一つのことばをもって教えを説くが、人びとはみなその性質に応じてそれを聞き、仏は今、わたしのために教えを説かれたと喜ぶ。

仏の境地は、迷える人びとの考えを超えており、ことばでは説き尽くすことはできないが、強いてその境地を示そうとすれば、たとえによるほかはない。

ガンジス河は常に亀や魚、馬や象などに汚されているが、いつも清らかである。仏もこの河のように、異教の魚や亀などが競い来って乱しても、少しも思いを乱されることなく清らかである。

この世は火の宅のように安らかでない。人びとは愚かさの闇につつまれて、怒り、ねたみ、そねみ、あらゆる煩悩に狂わされている。赤子に母が必要であるように、人びとはみなこの仏の慈悲に頼らなければならない。

仏は実に聖者の中の尊い聖者であり、この世の父である。だから、あらゆる人びとはみな仏の子である。彼らはひたすらこの世の楽しみにのみかかわり、その災いを見通す智慧を持たない。この世は苦しみに満ちた恐るべきところ、老いと病と死の炎は燃えてやまない。

ところが、仏は迷いの世界という火の宅を離れ、静寂な林にあって、「いまこの世界はわがものであり、その中の生けるものたちはみなわが子である。限りない悩みを救うのはわれひとりである。《と言う。

仏は実に、大いなる*法の王であるから、思いのままに教えを説く。仏はただ、人びとを安らかにし、恵みをもたらすためにこの世に現われた。人びとを苦しみから救い出すために、仏は法を説いた。ところが、人びとは欲に引かれて聞く耳を持たず気にもしていない。

しかし、この教えを聞いて喜ぶ人は、もはや決して迷いの世界に退くことのない境地におかれるであろう。「わが教えは、ただ信によってのみ入ることができる。すなわち、仏のことばを信ずることによって教えにかなうので、自分の知恵によるのではない。《と仏は言った。したがって仏の教えに耳を傾け、それを実践すべきである。

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仏教伝道協会刊『仏教聖典』より。
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