お釈迦様の教え | ||
人間の心 ♠すべては心を主とし 心から成っている ♠心をととのえて道を楽しむ ♠人はすべてのものに執着する ♠この世は夢か幻か ♠心に仏を思い念じる |
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♠すべては心を主とし 心から成っている |
迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。ちょうど手品師が、いろいろなものを自由に現わすようなものである。 人の心の変化には限りがなく、そのはたらきにも限りがない。汚れた心からは汚れた世界が現われ、清らかな心からは清らかな世界が現われるから、外界の変化にも限りがない。 絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。仏の作る世界は、煩悩を離れて清らかであり、人の作る世界は煩悩によって汚れている。 心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。心のように仏もそうであり、仏のように人びともそうである。だから、すべてのものを描き出すということにおいて、心と仏と人びとと、この三つのものに区別はない。 すべてのものは、心から起こると、仏は正しく知っている。だから、このように知る人は、真実の仏を見ることになる。 ところが、この心は常に恐れ悲しみ悩んでいる。すでに起こったことを恐れ、まだ起こらないことをも恐れている。なぜなら、この心の中に*無明と病的な愛着とがあるからである。 この貪りの心から迷いの世界が生まれ、迷いの世界のさまざまな因縁も、要約すれば、みな心そのものの中にある。 生も死も、ただ心から起こるのであるから、迷いの生死にかかわる心が滅びると、迷いの生死は尽きる。 迷いの世界はこの心から起こり、迷いの心で見るので、迷いの世界となる。心を離れて迷いの世界がないと知れば、汚れを離れてさとりを得るであろう。 このように、この世界は心に導かれ、心に引きずられ、心の支配を受けている。迷いの心によって、悩みに満ちた世間が現われる。 すべてのものは、みな心を先とし、心を主とし、心から成っている。汚れた心でものを言い、また身で行うと、苦しみがその人に従うのは、ちょうど牽く牛に車が従うようなものである。 しかし、もし善い心でものを言い、または身で行うと、楽しみがその人に従うのは、ちょうど影が形に添うようなものである。悪い行いをする人は、その悪の報いを受けて苦しみ、善い行いをする人は、その善の報いを受けて楽しむ。 この心が濁ると、その道は平らでなくなり、そのために倒れなければならない。また、心が清らかであるならば、その道は平らになり、安らかになる。 身と心との清らかさを楽しむものは、悪魔の網を破って仏の大地を歩むものである。心の静かな人は安らかさを得て、ますます努めて夜も昼も心を修めるであろう。 このページのTopへ |
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♠心をととのえて道を楽しむ |
道を求めてゆく人は、心の高ぶりを取り去って、教えの光を身に加えなければならない。どんな金銀・財宝の飾りも、徳の飾りには及ばない。 身を健やかにし、一家を栄えさせ、人びとを安らかにするには、まず、心をととのえなければならない。心をととのえて道を楽しむ思いがあれば、徳はおのずからその身にそなわる。 宝石は地から生まれ、徳は善から現われ、智慧は静かな清い心から生まれる。広野のように広い迷いの人生を進むには、この智慧の光によって、進むべき道を照らし、徳の飾りによって身をいましめて進まなければならない。 貪りと瞋りと愚かさという三つの毒を捨てよ、と説く*仏の教えは、よい教えであり、その教えに従う人は、よい生活と幸福を得る人である。 このページのTopへ |
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♠人はすべてのものに執着する |
人ははからいから、すべてのものに執着する。富に執着し、財に執着し、吊に執着し、命に執着する。 有無、善悪、正邪、すべてのものにとらわれて迷いを重ね苦しみと悩みとを招く。 ここに、ひとりの人がいて、長い旅を続け、とあるところで大きな河を見て、こう思った。この河のこちらの岸は危いが、向こう岸は安らかに見える。そこで筏を作り、その筏によって、向こうの岸に安らかに着くことができた。そこで「この筏は、わたしを安らかにこちらの岸へ渡してくれた。大変役に立った筏である。だから、この筏を捨てることなく、肩に担いで、行く先へ持って行こう。《と思ったのである。 このとき、この人は筏に対して、しなければならないことをしたといわれるであろうか。そうではない。 この比喩は、「正しいことさえ執着すべきではなく、捨て離れなければならない。まして、正しくないことは、なおさら捨てなければならない。《ということを示している。 このページのTopへ |
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♠この世は夢か幻か |
すべてのものは、来ることもなく、去ることもなく、生ずることもなく、滅することもなく、したがって得ることもなければ、失うこともない。
仏は、「すべてのものは有無の範疇を離れているから、有にあらず、無にあらず、生ずることもなく、滅することもない。《と説く。すなわち、すべてのものは因縁から成っていて、ものそれ自体の本性は実在性がないから、有にあらずといい、また因縁から成っているので無でもないから、無にあらずというのである。 ものの姿を見て、これに執着するのは、迷いの心を招く原因となる。もしも、ものの姿を見ても執着しないならば、はからいは起こらない。さとりは、このまことの道理を見て、はからいの心を離れることである。 まことに世は夢のようであり、財宝もまた幻のようなものである。絵に見える遠近と同じく、見えるけれども、あるのではない。すべては陽炎のようなものである。 無量の因縁によって現われたものが、永久にそのまま存在すると信ずるのは、常見という誤った見方である。また、まったくなくなると信ずるのは、断見という誤った見方である。 この断・常・有・無は、ものそのものの姿ではなく、人の執着から見た姿である。すべてのものは、もともとこの執着の姿を離れている。 ものはすべて縁によって起こったものであるから、みなうつり変わる。実体を持っているもののように永遠上変ではない。うつり変わるので、幻のようであり、陽炎のようではあるが、しかも、また、同時に、そのままで真実である。うつり変わるままに永遠上変なのである。 川は人にとっては川と見えるけれども、水を火と見る餓鬼にとっては、川とは見えない。だから、川は餓鬼にとっては「ある《とはいえず、人にとっては「ない《とはいえない。 これと同じように、すべてのものは、みな「ある《ともいえず、「ない《ともいえない、幻のようなものである。 しかも、この幻のような世界を離れて、真実の世も永遠上変の世もないのであるから、この世を、仮のものと見るのも誤り、実の世と見るのも誤りである。 ところが、世の人びとは、この誤りのもとは、この世の上にあると見ているが、この世がすでに幻とすれば、幻にはからう心があって、人に誤りを生じさせるはずはない。誤りは、この道理を知らず、仮の世と考え、実の世と考える愚かな人の心に起こる。 智慧ある人は、この道理をさとって、幻を幻と見るから、ついにこの誤りを犯すことはない。 このページのTopへ |
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♠心に仏を思い念じる |
いま、この仏は、ここよりはるか遠くのところにいるのではない。その仏の国ははるか遠くにあるけれども、仏を思い念じている者の心の中にもある。 まず、この仏の姿を心に思い浮かべて見ると、千万の金色に輝き、八万四千の姿や特徴がある。一つ一つの姿や特徴には八万四千の光があり、一つ一つの光は、一つ残らず、念仏する人を見すえて、包容して捨てることがない。 この仏を拝み見ることによって、また仏の心を拝み見ることになる。仏の心とは大いなる慈悲そのものであり、信心を持つ者を救いとるのはもちろん、仏の慈悲を知らず、あるいは忘れているような人びとをも救いとるのである。 信あるものには仏は仏と一つになる機会を与える。この仏を思い念ずると、この仏は、あらゆるところに満ちみちる体であるから、あらゆる人びとの心の中に入る。 だからこそ、心に仏を思うとき、その心は、実に円満な姿や特徴をそなえた仏であり、この心は仏そのものとなり、この心がそのまま仏となる。 清く正しい信心をもつものは、心が仏の心そのままであると思い描くべきである。 仏の体にはさまざまの相があり、人びとの能力に応じて現われ、この世界に満ちみちて、限りがなく、人の心の考えおよぶところではない。それは宇宙、自然、人間のそれぞれの姿の中で仰ぎ見ることができる。 しかし、仏の吊を念ずるものは、必ずその姿を拝むことができる。この仏は常にふたりの菩薩を従えて、念仏する人のもとに迎えに来る。 仏の化身はあらゆる世界に満ちみちているけれども、信心をもつ者だけが、それを拝み見ることができる。 仏の仮の姿を思うことさえ、限りない幸福を得るのであるから、真実の仏を拝み見ることの功徳には、はかり知れないものがある。 このページのTopへ |
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仏教伝道協会刊『仏教聖典』より | ||
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