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お釈迦様の教え
仏性
♠人々には仏性がそなわっている
♠仏性は修めねば現れない
♠「我《は迷いに 仏性は悟りに至らせる
♠仏性は金剛石のように堅い
♠仏を信ずる心は仏性の表われ
♠人々には仏性がそなわっている

清浄の本心とは、言葉を変えていえば*仏性である。仏性とは、すなわち*仏の種である。

レンズを取って太陽に向かい、もぐさを当てて火を求めるときに、火はどこから来るのであろうか。太陽とレンズとはあいへだたること遠く、合することはできないけれども、太陽の火がレンズを縁とし、もぐさの上に現われたことは疑いを入れない。また、もしも太陽があっても、もぐさに燃える性質がなければ、もぐさに火は起こらない。

いま、仏を生む根本である仏性のもぐさに、仏の*智慧のレンズを当てれば、仏の火は、仏性の開ける信の火として、人びとというもぐさの上に燃えあがる。

仏はその智慧のレンズを取って世界に当てられるから、世をあげて信の火が燃えあがるのである。

人びとは、この本来そなわっているさとりの仏性にそむいて、*煩悩のちりにとらわれ、ものの善し悪しの姿に心を縛られて、上自由を嘆いている。

なぜ、人びとは、本来さとりの心をそなえていながら、このように偽りを生み、仏性の光を隠し、迷いの世界にさまよっているのであろうか。

昔ある男が、ある朝鏡に向かって、自分の顔も頭もないのにあわて驚いた。しかし、顔も頭もなくなったのではなく、それは鏡を裏返しに見ていて、なくなったと思っていたのであった。

さとりに達しようとして達せられないからといって苦しむのは愚かであり、また、必要のないことである。さとりの中に迷いはないのであるが、限りない長い時間に、外のちりに動かされて、妄想を描き、その妄想によって迷いの世界を作り出していたのである。

だから、妄想がやめば、さとりはおのずと返ってきて、さとりのほかに妄想があるのではないとわかるようになる。しかも、上思議なことに、ひとたびさとった者には妄想はなく、さとられるものもなかったことに気づくのである。

♠仏性は修めねば現れない

この仏性は尽きることがない。たとえ畜生に生まれ、餓鬼となって苦しみ、地獄に落ちても、この仏性は絶えることはない。

汚い体の中にも、汚れた煩悩の底にも、仏性はその光を包み覆われている。

昔、ある人が友の家に行き、酒に酔って眠っているうちに、急用で友は旅立った。友はその人の将来を気づかい、価の高い宝石をその人の着物のえりに縫いこんでおいた。

そうとは知らず、その人は酔いからさめて他国へとさすらい、衣食に苦しんだ。その後、ふたたびその旧友にめぐり会い、「おまえの着物のえりに縫いこまれている宝石を用いよ。《と教えられた。

このたとえのように、仏性の宝石は、貪りや瞋りという煩悩の着物のえりに包まれて、汚されずにいるのである。

このように、どんな人でも仏の智慧のそなわらないものはないから、仏は人びとを見通して、「すばらしいことだ、人びとはみな仏の智慧と功徳とをそなえている。《とほめたたえる。

しかも、人びとは愚かさに覆われて、ものごとをさかさまに見、おのれの仏性を見ることができないから、仏は人びとに教えて、その妄想を離れさせ、本来、仏と違わないものであることを知らせる。

ここでいう仏とはすでに成ってしまった仏であり、人びとは将来まさに成るべき仏であって、それ以外の相違はない。

しかし、成るべき仏ではあるけれども、仏と成ったのではないから、すでに道を成しとげたかのように考えるなら、それは大きな過ちを犯しているのである。

仏性はあっても、修めなければ現われず、現われなければ道を成しとげたのではない。

♠「我《は迷いに 仏性は悟りに至らせる

このように、人には*仏性があるというと、それは他の教えでいう我と同じであると思うかも知れないが、それは誤りである。

我の考えは執着心によって考えられるけれども、さとった人にとっては、我は否定されなければならない執着であり、仏性は開き現わさなければならない宝である。仏性は我に似ているけれども、「われあり《とか「わがもの《とかいう場合の我ではない。

我があると考えるのは、ないものをあると考える、さかさまの見方であり、仏性を認めないことも、あるものをないと考える、さかさまの見方である。

例えば、幼子が病にかかって医師にかかるとすると、医師は薬を与えて、この薬のこなれるまでは乳を与えてはならないと言いつける。

母は乳房ににがいものを塗り、子に乳をいやがらせる。後に、薬のこなれたときに、乳房を洗って、子の口にふくませる。母のこのふるまいは、わが子をいとおしむやさしい心からくるものである。

ちょうどこのように、世の中の誤った考えを取り去り、我の執着を取り去るために、我はないと説いたが、その誤った見方を取り去ったので、あらためて仏性があると説いたのである。

我は迷いに導くものであり、仏性はさとりに至らせるものである。

家に黄金の箱を持ちながら、それを知らないために、貧しい生活をする人をあわれんで、その黄金の箱を掘り出して与えるように、*仏は人びとの仏性を開いて、彼らに見せる。

♠仏性は金剛石のように堅い

この仏性は金剛石のように堅いから、破壊することはできない。砂や小石に穴をあけることはできても、金剛石に穴をあけることはできない。

身と心は破られることがあっても、仏性を破ることはできない。

仏性は、実にもっともすぐれた人間の特質である。世に、男はまさり女は劣るとするならわしもあるが、仏の教えにおいては、男女の差別を立てず、ただこの仏性を知ることを尊いとする。

黄金の粗金を溶かして、そのかすを取り去り、錬りあげると貴い黄金になる。心の粗金を溶かして煩悩のかすを取り去ると、どんな人でも、みなすべて同一の仏性を開き現わすことができる。

♠仏を信ずる心は仏性の表われ

この、仏を信ずる心は、人びとの心の底に横たわっている*仏性の表われである。なぜかといえば、仏を知るものは仏であり、仏を信ずるものは仏でなければならないからである。

しかし、たとえ仏性があっても、仏性は、*煩悩の泥の底深く沈んで、成仏の芽を吹き出し、花開くことはできない。貪り・瞋りの煩悩の逆巻く中に、どうして仏に向かう清い心が起こるであろうか。

エーランダという毒樹の林には、エーランダの芽だけが吹き出して、チャンダナ(栴檀)の香木は生えることはない。エーランダの林にチャンダナが生えたならば、これはまことに上思議である。いま人びとの胸のうちに、仏に向かい、仏を信ずる心の生じたのも、これと同じく上思議なことといわなければならない。

だから、人びとの仏を信ずる信の心を無根の信という。無根というのは、人びとの心の中には信の生え出る根はないが、仏の*慈悲の心の中には、信の根があることをいうのである。

仏教伝道協会刊『仏教聖典』より
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