お釈迦様の教え | ||
悟りへの道 ♠悟りへの道に二十の難事 ♠何が第一の問題であるか ♠限りない慈悲の心 ♠共命鳥(ぐみょうちょう) ♠ある蛇の頭と尾 ♠愚かな人 賢い人 ♠福の神と貧乏神 ♠心さえあれば みなことごとく教え ♠戒・定・慧の三学 ♠八正道とは次の八つである ♠四念住とは次の四つである ♠四正勤とは次の四つである ♠五力とは次の五つである ♠六波羅蜜とは ♠最上の施し ♠琴の糸のごとく ♠悟りは第一の楽しみである ♠錆(さび)は鉄からでて鉄をむしばむ ♠迷いを離れて悟りはない |
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♠悟りへの道に二十の難事 |
この世の中に、さとりへの道を始めるに当たって成し難いことが二十ある。 このページのTopへ |
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♠何が第一の問題であるか |
この宇宙の組み立てはどういうものであるか、この宇宙は永遠のものであるか、やがてなくなるものであるか、この宇宙は限りなく広いものであるか、それとも限りがあるものであるか、社会の組み立てはどういうものであるか、この社会のどういう形が理想的なものであるか。これらの問題がはっきりきまらないうちは、道を修めることはできないというならば、だれも道を修め得ないうちに死が来るであろう。 例えば、人が恐ろしい毒矢に射られたとする。親戚や友人が集まり、急いで医者を呼び毒矢を抜いて、毒の手当てをしようとする。 ところがそのとき、その人が、 いうまでもなく、それらのことがわかってしまわないうちに、毒は全身に回って死んでしまうに違いない。この場合にまずしなければならないことは、まず矢を抜き、毒が全身に回らないように手当てをすることである。 この宇宙の組み立てがどうであろうと、この社会のどういう形のものが理想的であろうとなかろうと、身に迫ってくる火は避けなくてはならない。 宇宙が永遠であろうとなかろうと、限りがあろうとなかろうと、生と老と病と死、愁い、悲しみ、苦しみ、悩みの火は、現に人の身の上におし迫っている。人はまず、この迫っているものを払いのけるために、道を修めなければならない。 仏の教えは、説かなければならないことを説き、説く必要のないことを説かない。すなわち、人に、知らなければならないことを知り、断たなければならないものを断ち、修めなければならないものを修め、さとらなければならないものをさとれと教えるのである。 だから、人はまず問題を選ばなければならない。自分にとって何が第一の問題であるか、何が自分にもっともおし迫っているものであるかを知って、自分の心をととのえることから始めなければならない。 このページのTopへ |
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♠限りない慈悲の心 |
ヒマーラヤ山のふもとの、ある竹やぶに、多くの鳥や獣と一緒に、一羽のおうむが住んでいた。あるとき、にわかに大風が起こり、竹と竹とが擦れあって火が起こった。火は風にあおられて、ついに大火となり、鳥も獣も逃げ場を失って鳴き叫んだ。おうむは、一つには、長い間住居を与えてくれた竹やぶの恩に報いるために、一つには、大勢の鳥や獣の災難を哀れんで、彼らを救うために、近くの池に入っては翼を水に浸し、空にかけのぼっては滴を燃えさかる火の上にそそぎかけ、竹やぶの恩を思う心と、限りない慈愛の心で、たゆまずにこれを続けた。慈悲と献身の心は天界の梵天を感動させた。梵天は空から下って来ておうむに語った。 「おまえの心はけなげであるが、この大いなる火を、どうして羽の滴で消すことができよう。《おうむは答えて言う。 「恩を思う心と慈悲の心からしていることが、できないはずはない。わたしはどうしてもやる。次の生に及んでもやりとおす。《と。 梵天はおうむの偉大な志にうたれ、力を合わせてこのやぶの火を消し止めた。 このページのTopへ |
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♠共命鳥(ぐみょうちょう) |
ヒマーラヤ山に共命鳥という鳥がいた。体は一つ、頭は二つであった。 あるとき、一つの頭がおいしい果実を食べるのを見て、もう一つの頭がねたみ心を起こし、「それならわたしは毒の果実を食べてやろう。《と毒を食べて、両方ともに死んでしまった。 このページのTopへ |
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♠ある蛇の頭と尾 |
ある蛇の頭と尾とが、あるとき、お互いに前に出ようとして争った。尾が言うには、 頭が言うには、 互いに争ったが、やはり頭が前にあるので、尾は怒って木に巻きついて頭が前へ進むことを許さず、頭がひるむすきに、木から離れて前へ進み、ついに火の穴へ落ち、焼けただれて死んだ。 ものにはすべて順序があり、異なる働きがそなわっている。上平を並べてその順序を乱し、そのために、そのおのおのに与えられている働きを失うようになると、そのすべてが滅んでしまうのである。 このページのTopへ |
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♠愚かな人 賢い人 |
非常に気が早く怒りっぽい男がいた。その男の家の前で、二人の人がうわさをした。 「ここの人は大変よい人だが、気の早いのと、怒りっぽいのが病である。《と。 その男は、これを聞くとすぐ家を飛び出してきて、二人の人におそいかかり、打つ、ける、なぐるの乱暴をし、とうとう二人を傷つけてしまった。 賢い人は、自分の過ちを忠告されると、反省してあらためるが、愚かな者は、自分の過ちを指摘されると、あらためるどころか、かえって過ちを重ねるものである。 金持ちではあるが愚かな人がいた。他人の家の三階づくりの高層が高くそびえて、美しいのを見てうらやましく思い、自分も金持ちなのだから、高層の家を造ろうと思った。 大工を呼んで建築を言いつけた。大工は承知して、まず基礎を作り、二階を組み、それから三階に進もうとした。主人はこれを見て、もどかしそうに叫んだ。 「わたしの求めるのは土台ではない、一階でもない、二階でもない、三階の高楼だけだ。早くそれを作れ。《と。 愚かな者は、努め励むことを知らないで、ただ良い結果だけを求める。しかし、土台のない三階はあり得ないように、努め励むことなくして、良い結果を得られるはずがない。 このページのTopへ |
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♠福の神と貧乏神 |
ある家に、ひとりの美しい女が、着飾って訪ねてきた。その家の主人が、 すると、すぐその後から、粗末なみなりをした醜い女が入ってきた。主人がだれであるかと尋ねると、貧乏神であると答えた。主人は驚いてその女を追い出そうとした。すると女は、 生があれば死があり幸いがあれば災いがある。善いことがあれば悪いことがある。人はこのことを知らなければならない。愚かな者は、ただいたずらに、災いをきらって幸いだけを求めるが、道を求めるものは、この二つをともに超えて、そのいずれにも執着してはならない。 このページのTopへ |
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♠心さえあれば みなことごとく教え |
昔、スダナ(善財)という童子があった。この童子もまた、ただひたすらに道を求め、さとりを願う者であった。海で魚をとる漁師を訪れては、海の上思議から得た教えを聞いた。人の病を診る医師からは、人に対する心は慈悲でなければならないことを学んだ。また、財産を多く持つ長者に会っては、あらゆるものはみなそれなりの価値をそなえているということを聞いた。 また坐禅する出家を訪れては、その寂かな心が姿に現われて、人びとの心を清め、上思議な力を与えるのを見た。また気高い心の婦人に会ってはその奉仕の精神にうたれ、身を粉にして骨を砕いて道を求める行者にめぐり会っては、真実に道を求めるためには、刃の山にも登り、火の中でもかき分けてゆかなければならないことを知った。 このように童子は、心さえあれば、目の見るところ、耳の聞くところ、みなことごとく教えであることを知った。 かよわい女にもさとりの心があり、街に遊ぶ子供の群れにもまことの世界のあることを見、すなおな、やさしい人に会っては、ものに従う心の明らかな智慧をさとった。 香をたく道にも仏の教えがあり、華を飾る道にもさとりのことばがあった。ある日、林の中で休んでいたときに、彼は朽ちた木から一本の若木が生えているのを見て生命の無常を教わった。 昼の太陽の輝き、夜の星のまたたき、これらのものも善財童子のさとりを求める心を教えの雨でうるおした。 童子はいたるところで道を問い、いたるところでことばを聞き、いたるところでさとりの姿を見つけた。 まことに、さとりを求めるには、心の城を守り、心の城を飾らなければならない。そして敬虔に、この心の城の門を開いて、その奥に仏をまつり、信心の華を供え、歓喜の香を捧げなければならないことを童子は学んだのである。 このページのTopへ |
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♠戒・定・慧の三学 |
さとりを求める者が学ばなければならない三つのことがある。それは戒律と心の統一(定)と智慧の三学である。 戒とは何であるか。人として、また道を修める者として守らなければならない戒を保ち、心身を統制し、五つの感覚器官の入口を守って、小さな罪にも恐れを見、善い行いをして励み努めることである。 心の統一とは何であるか。欲を離れ上善を離れて、次第に心の安定に入ることである。 智慧とは何であるか。四つの真理を知ることである。それは、これが苦しみである、これが苦しみの原因である、これが苦しみの消滅である、これが苦しみの消滅に至る道であると、明らかにさとることである。 この三学を学ぶものが、仏の弟子といわれる。 驢馬が、牛の形も声も角もないのに、牛の群れの後からついてきて、わたしも牛であると言っても、だれも信用しないように、この戒と心の統一と智慧の三学を学ばないでいて、わたしは道を求める者である、仏の弟子であると言っても、それは愚かなことである。 農夫が秋に収穫を得るために、まず春のうちに田を耕し、種をまき、水をかけ、草を取って育てるように、さとりを求める者は、必ずこの三学を学ばなければならない。農夫が、まいた種が今日のうちに芽を出し、明日中に穂が出て、明後日には刈り入れができるようにと願ってもそれはできないことであるように、さとりを求める者も、今日のうちに*煩悩を離れ、明日中に執着をなくし、明後日にさとりを得るというような上思議は得られるものではない。 種はまかれてから、農夫の辛苦と、季節の変化を受けて芽が生じ、ようやく最後に実を結ぶ。さとりを得るのもそのように、戒と心の統一と智慧の三学を修めているうちに次第に煩悩が滅び、執着が離れ、ようやくさとりの時が来るのである。 このページのTopへ |
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♠八正道とは次の八つである |
この三学は、開けば八正道となり、四念住、四正勤、五力、六波羅蜜とも説かれる。 八正道は、正しいものの見方、正しいものの考え方、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念い、正しい心の統一である。 正しいものの見方とは、四つの真理(四諦)を明らかにして、原因・結果の道理を信じ、誤った見方をしないこと。 正しいものの考え方とは、欲にふけらず、貪らず、瞋らず、害なう心のないこと。 このページのTopへ |
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♠四念住とは次の四つである |
わが身は汚れたもので執着すべきものではないと見る。 このページのTopへ |
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♠四正勤とは次の四つである |
これから起ころうとする悪は、起こらない先に防ぐ。 このページのTopへ |
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♠五力とは次の五つである |
信ずること。 このページのTopへ |
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♠六波羅蜜とは |
六波羅蜜とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つのことで、この六つを修めると、迷いの此の岸から、さとりの彼の岸へと渡ることができるので、六度ともいう。 布施は、惜しみ心を退け、持戒は行いを正しくし、忍辱は怒りやすい心を治め、精進は怠りの心をなくし、禅定は散りやすい心を静め、智慧は愚かな暗い心を明らかにする。 布施と持戒とは、城を作る礎のように、修行の基となり、忍辱と精進とは城壁のように外難を防ぎ、禅定と智慧とは、身を守って生死を逃れる武器であり、それは甲冑に身をかためて敵に臨むようなものである。 このページのTopへ |
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♠最上の施し |
乞う者を見て与えるのは施しであるが、最上の施しとはいえない。心を開いて、自ら進んで他人に施すのが最上の施しである。また、ときどき施すのも最上の施しではない。常に施すのが最上の施しである。 施した後で悔いたり、施して誇りがましく思うのは、最上の施しではない。施して喜び、施した自分と、施しを受けた人と、施した物と、この三つをともに忘れるのが最上の施しである。 正しい施しは、その報いを願わず、清らかな*慈悲の心をもって、他人も自分も、ともにさとりに入るように願うものでなければならない。 世に無財の七施とよばれるものがある。財なき者にもなし得る七種の布施行のことである。 このページのTopへ |
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♠琴の糸のごとく |
世尊の弟子シュローナは富豪の家に生まれ、生まれつき体が弱かった。世尊にめぐり会ってその弟子となり、足の裏から血を出すほど痛々しい努力を続け、道を修めたけれども、なおさとりを得ることができなかった。 世尊はシュローナを哀れんで言われた。 さとりを得る道もこれと同じく、怠れば道を得られず、またあまり張りつめて努力しても、決して道は得られない。だから、人はその努力についても、よくその程度を考えなければならない。《 このページのTopへ |
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♠悟りは第一の楽しみである |
どんな悪をもなさず、あらゆる善いことをし、おのおの心を清くする、それが*仏の教えである。 耐え忍ぶことは、なし難い修行の一つである。しかしよく忍ぶ者にだけ最後の勝利の花が飾られる。 怨みのさ中にあって怨みなく、愁いのさ中にあって愁いがなく、貪りのさ中にあって貪りがなく、一物もわがものと思うことなく、清らかに生きなければならない。 病のないのは第一の利、足るを知るのは第一の富、信頼あるのは第一の親しみ、さとりは第一の楽しみである。 悪から遠ざかる.わい、寂けさの味わい、教えの喜びの味わい、この味わいを味わう者には恐れがない。 心に好悪を起こして執着してはならない。好むこと、きらうことから悲しみが起こり、恐れが起こり、束縛が起こる。 このページのTopへ |
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♠錆(さび)は鉄からでて鉄をむしばむ |
鉄の錆が鉄からでて鉄をむしばむように、悪は人から出て人をむしばむ。 経があっても読まなければ経の垢、家があっても破れてつくろわないのは家の垢、身があっても怠るのは身の垢である。 行いの正しくないのは人の垢、もの惜しみは施しの垢、悪はこの世と後の世の垢である。 しかし、これらの垢よりも激しい垢は*無明の垢である。この垢を落とさなければ、人は清らかになることはできない。 恥じる心なく、烏のようにあつかましく、他人を傷つけて省みるところのない人の生活は、なしやすい。 謙遜の心があり、敬いを知り、執着を離れ、清らかに行い、智慧明らかな人の生活は、なし難い。 他人の過ちは見やすく、おのれの過ちは見難い。他人の罪は風のように四方に吹き散らすが、おのれの罪は、さいころを隠すように隠したがる。 空には鳥や煙や嵐の跡なく、よこしまな教えにはさとりなく、すべてのものには永遠ということがない。そして、さとりの人には動揺がない。 このページのTopへ |
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♠迷いを離れて悟りはない |
さとりにはきまった形やものがないから、さとることはあるがさとられるものはない。 迷いがあるからさとりというのであって、迷いがなくなればさとりもなくなる。迷いを離れてさとりはなく、さとりを離れて迷いはない。 だから、さとりのあるのはなお障げとなる。闇があるから照らすということがあり、闇がなくなれば照らすということもなくなる。照らすことと照らされるものと、ともになくなってしまうのである。 まことに、道を修めるものは、さとってさとりにとどまらない。さとりのあるのはなお迷いだからである。 この境地に至れば、すべては、迷いのままにさとりであり、闇のままに光である。すべての煩悩がそのままさとりであるところまで、さとりきらなければならない。 このページのTopへ |
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仏教伝道協会刊『仏教聖典』より | ||
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