お釈迦様の教え | ||
仏教徒の道 ♠仏教徒は光をどこにでも見いだす ♠信じて仏と一体になる ♠仏教徒の心がけ ♠よき友になるように心がける ♠六方を拝む ♠父母を喜び敬う ♠世の中には四通りの婦人がある ♠嫁入るときの心がけ ♠夫婦の道 ♠生かして使え ♠尊い布施行 無財の七施 ♠はからいを離れた智慧で照らす ♠十の誓い ♠仏の教えに心が素直となる ♠永遠なる彼岸の浄土 |
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♠仏教徒は光をどこにでも見いだす |
仏教を信ずる者とは、三宝、すなわち、*仏と教えと *教団を信ずる者のことであるということは、すでに説いた。 だから、仏教を信ずる者は、仏と教えと教団に対して、破れることのない信を抱き、教えが命じている信者としての戒律を守らなければならない。 在家者としての戒とは、ものの命を取らず、盗まず、よこしまな愛欲にふけらず、偽りを言わず、酒を飲まないことである。 在家者はこの三宝に対する信と、在家者としての戒を保つとともに、他人にもこの信と戒を得させるようにしなければならない。親戚、友人、知人の間に同信の人をつくるように努めなければならない。そうすることによって彼らもまた仏の*慈悲に浴することができる。 三宝に対する信を持ち、在家としての戒を守ることは、さとりを得るためであるから、在家の愛欲の生活の中にあっても、愛着に縛られないようにしなければならない。 父母ともついには別れなければならない。家族ともついには離れなければならない。この世もついには去らなければならない。別れなければならないもの、去らなければならないものに心を縛られず、別離というもののない*涅槃に心を寄せなければならない。 |
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♠信じて仏と一体になる |
仏の教えを聞いて、信が厚く、退くことがなければ、喜びは自然にわき起こる。この境地に入れば、何ごとにも光を認め、喜びを見いだしてゆくことができる。 その心は清く柔らかに、常に耐え忍んで、争いを好まず、人びとを悩まさず、仏と教えと教団を思うから、喜びは自然にわきいで、光はどこにでも見いだされる。 信ずることによって仏と一体になり、我という思いを離れているから、わがものを貪らず、したがって、生活に恐れがなく、そしられることをいとわない。 仏の国に生まれることを信じているから死を恐れない。教えの真実と尊さを信じているから、人びとの前に出ても、恐れることなく自分の信ずるところを言うことができる。 また慈悲を心のもととするから、すべての人に対して好ききらいの思いがなく、心が正しく清らかであるから、進んであらゆる善を修める。 また順調の時も逆境のときも信仰を増し、恥を知り、教えを敬い、言ったとおりに行い、行うとおりに言い、ことばと行いとが一致し、明らかな*智慧をもってものを見、心は山のように動かず、ますますさとりへの道に進むことを願う。 また、どんなできごとに出会っても、仏の心を心として人びとを導き、濁った世の中にも、汚れた人びとの間にも交わって、その人びとが善にうつるように尽くすのである。 |
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♠仏教徒の心がけ |
またこの仏教教団の在家者には、日常、父母に仕え、家族に仕え、自分に仕え、仏に仕えるいろいろな心がけがある。 すなわち、父母に仕えるときには、一切を守り養って、永く平和を得ようと思い、妻子と一緒にいるときには、愛着の牢獄から脱しなければならないものと思わなければならない。 音楽を聞いているときには、教えの楽しみを得ようと思い、室にいるときは、賢者の境地に入って永く汚れを離れようと思わなければならない。 また、たまたま他人に施しをするときは、すべてを捨てて貪る心をなくそうと思い、集いの中にあるときには、諸仏の集いに入ろうと思い、災難にあったときには、どんなことにも動揺しない心を得ようと願わなければならない。 また仏に帰依するときには、人びととともに大道を体得して、道を求める心を起こそうと願い、 教えに帰依しては、人びととともに深く教えの蔵に入って、海のように大きい智慧を得ようと願い、 教団に帰依しては、人びととともに大衆を導いて、すべての障害を除こうと願うがよい。 |
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♠よき友になるように心がける |
人は親しむべき友と、親しむべきでない友とを、見分けなければならない。 親しむべきでない友とは、貪りの深い人、ことばの巧みな人、へつらう人、浪費する人である。 親しむべき友とは、ほんとうに助けになる人、苦楽をともにする人、忠言を惜しまない人、同情心の深い人である。 ふまじめにならないよう注意を与え、陰に回って心配をし、災難にあったときには慰め、必要なときに助力を惜しまず、秘密をあばかず、常に正しい方へ導いてくれる人は、親しみ仕えるべき友である。 自らこのような友を得ることは容易ではないが、また、自分もこのような友になるように心がけなければならない。よい人は、その正しい行いゆえに、世間において、太陽のように輝く。 |
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♠六方を拝む |
災いが内からわくことを知らず、東や西の方角から来るように思うのは愚かである。内を修めないで外を守ろうとするのは誤りである。 朝早く起き出て口をすすぎ、顔を洗い、東・西・南・北・上・下の六方を拝んで、災いの出口を守り、その日一日のしあわせを願うのは、世の人のなすところである。 しかし、*仏の教えにおいては、これと異なり、正しい真理の六方に向かって尊敬を払い、賢明に徳を行って、災いを防ぐのである。 この六方を守るには、まず四つの行いの汚れを捨て、四つの悪い心を押しとどめ、家や財産を傾ける六つの門をふさがなければならない。 この四つの行いの汚れとは、殺生と盗みとよこしまな愛欲と偽りである。四つの悪い心とは、貪りと瞋りと愚かさと恐れとである。家や財産を傾ける六つの門とは、酒を飲んでふまじめになること、夜ふかしして遊びまわること、音楽や芝居におぼれること、 事にふけること、悪い友だちと交わること、それに仕事を怠けることである。 この四つの行いの汚れを捨て、四つの悪い心を押しとどめ、家や財産を傾ける六つの門をふさいで、それからまことの六方を拝むのである。 このまことの六方とは何かというと、東方は親子の道、南方は師弟の道、西方は夫婦の道、北方は友人の道、下方は主従の道、そして、上方は教えを説く者に奉仕する道である。 まず、東方の親子の道とは、子は父母に対して五つのことをする。父母を養い、父母のために働き、家系を守り、家督を相続し、祖先に対して供物を捧げることである。 これに対して、親は子に五つのことをする。それは悪を遠ざけ、善をすすめ、知恵・技能を学ばせ、結婚させ、適当な時期に家督を譲ることである。互いにこの五つを守れば、東方の親子の道は平和であり、憂いがない。 次に南方の師弟の道とは、弟子は師に対し、座を立って迎え、よく近くで仕え、熱心に聴聞し、供養を怠らず、慎んで教えを受ける。 それと同時に、師はまた弟子に対して、自ら身を正して指導し、自ら学び得たところをすべて正しく授け、よく会得したことを忘れないようにさせ、引き立てて吊を表わすようにし、どこにあっても利益と尊敬が受けられるようにする。こうして南方の師弟の道は平和であり、憂いがない。 次に西方の夫婦の道とは、夫は妻に対し、尊敬と、礼節と、貞操とをもって接し、権威をゆだね、装飾品を贈る。妻は夫に対し、すべての仕事をよく処理し、親族たちを適切に待遇し、貞操を保ち、家の財産を守り、家庭がうまくいくようにする。これによって西方の夫婦の道は平和であり、憂いがない。 次に北方の友人の道とは、相手の足らないものを施し、優しいことばで語り、利益をはかり、常に相手を思いやり、正直に対処する。 また友人が悪い方に流れないように務め、万一そのような場合にはその財産を守ってやり、また心配のあるときには相談相手になり、逆境のときは助けの手をのばし、必要な場合にはその家族を養うこともする。このようにして北方の友人の道は平和であり、憂いがない。 次に下方の主従の道とは、主人は使用人に対して、次の五つを守る。その力に応じて仕事をさせる。よい食物と給与を与える。病気のときは親切に看病する。美味しいものは分かち与える。適当な時に休養させる。 これに対して使用人は、主人に五つの心得をもって仕える。朝は主人よりも早く起き、夜は主人よりも遅く眠る。何ごとにも正直であり、仕事にはよく熟練する。そして主人の吊誉を傷つけないよう心がける。こうして下方の主従の道は平和であり、憂いがない。 次に上方の教えを説く者に奉仕する道とは、その教えを授ける師に対し、身も口も意もともに情けに満ち、丁寧にその師を迎え、その教えを聴いて守り、供養することである。 これに対して、教えを説く者は、悪を遠ざけ、善をすすめ、善い心をもって慈しみ、人の道を説き、よく教えを理解させ、人をして平安の境地に入らせるようにしなければならない。このようにして、上方の教えを説く者に奉仕する道は平和であり、憂いがない。 六方を拝むというのは、このように、六方の方角を拝んで災いを避けようとすることではない。人としての六方を守って、内からわいてくる災いを、自ら防ぎとめることである。 |
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♠父母を喜び敬う |
父母の大恩は、どのように努めても報いきれない。例えば百年の間、右の肩に父をのせ、左の肩に母をのせて歩いても、報いることはできない。 また、百年の間、日夜に香水で、父母の体を洗いさすり、あらゆる孝養を尽くしても、または父母を王者の位に昇らせるほどに、努め励んで、父母をして栄華を得させても、なおこの大恩に報いきることはできない。 しかし、もし父母を導いて仏の教えを信じさせ、誤った道を捨てて正しい道にかえらせ、貪りを捨てて施しを喜ぶようにすることができれば、はじめてその大恩に報いることができるのである。あるいはむしろ、それ以上であるとさえいえよう。父母を喜び敬うものの家は、仏や神の宿る家である。 |
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♠世の中には四通りの婦人がある 「仏教聖典《に該当する箇所はありません。 |
第一種の婦人は、ささいなことにも腹立ちやすく、気まぐれで、欲深く、他人の幸福を見てはそねみ、施すことを知らない。 第二種の婦人は、腹立ちやすく、気まぐれで、欲深いが、他人の幸福をうらやむことがなく、また施すことを知っている。 第三種の婦人は、心広く、みだりに腹を立てない。また、気まぐれでもなく欲を抑えることを知ってはいるが、しかし他人をうらやみ、ねたむ心が取れずまた施すことを知らない。 第四種の婦人は、心広く、腹を立てることがなく、欲を抑えて落ち着きがあり、そして他人をうらやまず、また施すことを知っている。 |
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♠嫁入るときの心がけ 「仏教聖典《に該当する箇所はありません。 |
夫の両親に敬い仕えなければならない。夫の両親は、わたしども二人の利益を計り、なさけ深く守って下さる方であるから、感謝して仕え、いつでもお役に立つようでありたい。 夫の師は、夫に尊い教えを授けて下さるから、自分もまた大切に尊び敬っていこう。人として心の師を持たずには生きられないからである。 夫の仕事に理解をもってそれを助けていくように、自分も教養に心がけよう。夫の仕事を他人の仕事のように考えて、それに無責任であってはならない。 夫の家の使用人や出入りの人たちについても、よくその気立てや能力や食べ物の好みなどを心得て、親切に面倒を見てゆこう。また夫の収入は大切にたくわえ、決して自分のためにむだ遣いしないように心がけよう。 |
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♠夫婦の道 |
夫婦の道は、ただ都合によって一緒になったのではなく、また肉体が一つ所に住むだけで果たされるものでもない。夫婦はともに、一つの教えによって心を養うようにしなければならない。 かつて夫婦の鏡とほめたたえられたある老夫婦は、世尊のところに赴いて、こう言った。「世尊よ、わたしどもは幼少のときから互いに知りあい、夫婦になったが、いままで心のどのすみにも、貞操のくもりを宿したことはない。この世において、このように夫婦として一生を過ごしたように、後の世にも、夫婦として相まみえることができるように教えて戴きたい。《 世尊は答えられた。「二人ともに信仰を同じくするがよい。一つの教えを受けて、同じように心を養い、同じように施しをし、智慧を同じくすれば、後の世にもまた、同じく一つの心で生きることができるであろう。《 |
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♠生かして使え |
人はだれでもその家計のことについては、専心に蟻のように励み、蜜蜂のように努めなければならない。いたずらに他人の力をたのみ、その施しを待ってはならない。 また努め励んで得た富は、自分ひとりのものと考えて自分ひとりのために費やしてはならない。その幾分かは他人のためにこれを分かち、その幾分かはたくわえて上時の用にそなえ、また社会のため、教えのために用いられることを喜ばなければならない。 一つとして「わがもの《というものはない。すべてはみな、ただ*因縁によって、自分にきたものであり、しばらく預かっているだけのことである。だから、一つのものでも、大切にして粗末にしてはならない。 アーナンダ(阿難)が、ウダヤナ王の妃、シャマヴァティーから、五百着の衣を供養されたとき、アーナンダはこれを快く受け入れた。 王はこれを聞いて、あるいはアーナンダが貪りの心から受けたのではあるまいかと疑った。王はアーナンダを訪ねて聞いた。 アーナンダは答えた。「大王よ、多くの比丘は破れた衣を着ているので、彼らにこの衣を分けてあげます。《「それでは破れた衣はどうしますか。《「破れた衣で敷布を作ります。《「古い敷布は。《「枕の袋に。《「古い枕の袋は。《「床の敷物に使います。《「古い敷物は。《「足ふきを作ります。《「古い足ふきはどうしますか。《「雑巾にします。《「古い雑巾は。《「大王よ、わたしどもはその雑巾を細々に裂き、泥に合わせて、家を造るとき、壁の中に入れます。《 ものは大切に使わなければならない。生かして使わなければならない。これが「わがもの《でない、預かりものの用い方である。 |
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♠尊い布施行 無財の七施 |
世に無財の七施とよばれるものがある。財なき者にもなし得る七種の布施行のことである。 一には身施(しんせ)・・・・・・肉体による奉仕であり、その最高なるものが捨身行である。 二には心施(しんせ)・・・・・・他人や他の存在に対する思いやりの心である。 三には眼施(げんせ)・・・・・・やさしきまなざしであり、そこに居るすべての人の心がなごやかになる。 四には和顔施(わげんせ)・・柔和な笑顔を絶やさないことである。 五には言施(ごんせ)・・・・・・思いやりのこもったあたたかい言葉をかけることである。 六には牀座施(しょうざせ)・・自分の席をゆずることである。 七には房舎施(ぼうしゃせ)・・わが家を一夜の宿に貸すことである。 以上の七施ならば、だれにでも出来ることであり、日常生活の中で行えることばかりなのである。 |
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♠はからいを離れた智慧で照らす |
また、仏教を信ずる者は、すべてのもののありのままの姿、すなわち「空《の教えを知っているから、世の中の仕事、人間の間のいろいろのことを軽視せず、そのまま受け入れ、それをそのまま悟りの道にかなうようにする。 人間の世界のことは迷いであって意味がなく、悟りの世界のことは尊い、という二つに分けることなく、世間のすべてのできごとの中に悟りの道を味わうようにする。 無明に覆われた眼で見れば、世間は意味のない間違ったものとなるであろうが、智慧をもって明らかにながめると、そのままが悟りの世界になる。 ものに、意味のないものと意味のあるものとの二つがあるのではなく、善いものと悪いものとの二つがあるのでもない。二つに分けるのは人のはからいである。 はからいを離れた智慧をもって照らせば、すべてはみな尊い意味を持つものとなる。 |
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♠十の誓い |
さとりの道においては、男と女の区別はない。女も道を求める心を起こせば、「さとりを求める者《といわれる。 プラセーナジット(波斯匿・はしのく)王の王女、アヨーディヤー国王の妃、マッリカー(勝鬘)夫人は、このさとりを求める者であって、深く世尊の教えに帰依し、世尊の前において、次の十の誓いを立てた。 「世尊よ、わたしは、今からさとりに至るまで、 わたしはまた、この上幸な人びとを哀れみ救うために、さらに三つの願いを立てます。 家庭の真の意義は、相たずさえて道に進むところにある。この道に進む心を起こして、このマッリカー夫人のように大きな願いを持つならば、まことに、すぐれた仏の弟子となるであろう。 |
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♠仏の教えに心が素直となる |
教えのしかれている世界では、人びとの心が素直になる。これはまことに、あくことのない大悲によって、常に人びとを照らし守るところの仏の心に触れて、汚れた心も清められるからである。 この素直な心は、同時に深い心、道にかなう心、施す心、戒を守る心、忍ぶ心、励む心、静かな心、智慧の心、慈悲の心となり、また方便をめぐらして、人びとに道を得させる心ともなるから、ここに仏の国が、立派にうち建てられる。 妻子とともにある家庭も、立派に仏の宿る家庭となり、社会的差別の免れない国家でも、仏の治める心の王国となる。 まことに、欲にまみれた人によって建てられた御殿が仏の住所ではない。月の光が漏れこむような粗末な小屋も、素直な心の人を主とすれば、仏の宿る場所となる。 ひとりの心の上にうち建てられた仏の国は、同信の人を呼んでその数を加えてゆく。家庭に村に町に都市に国に、最後には世界に、次第に広がってゆく。 まことに、教えを広めてゆくことは、この仏の国を広げてゆくことにほかならない。 |
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♠永遠なる彼岸の浄土 |
まことにこの世界は、一方から見れば、悪魔の領土であり、欲の世界であり、血の戦いの場ではあるが、この世界において、仏の悟りを信じる者は、この世を汚す血を乳とし、欲を慈しみに代え、この世を悪魔の手から奪い取って、仏の国となそうとする。 一つの柄杓を取って、大海の水を汲み尽くそうとすることは、容易ではない。しかし、生まれ変わり死に変わり、必ずこの仕事を成しとげようとするのが、仏を信ずるものの心の願いである。 仏は彼岸に立って待っている。彼岸は悟りの世界であって、永久に、貪りと瞋りと愚かさと苦しみと悩みとのない国である。そこには智慧の光だけが輝き、慈悲の雨だけが、しとしとと潤している。 この世にあって、悩む者、苦しむ者、悲しむ者、または、教えの宣布に疲れた者が、ことごとく入って憩い休らうところの国である。 この国は、光の尽きることのない、命の終わることのない、ふたたび迷いに帰ることのない仏の国である。 まことにこの国は、悟りの楽しみが満ちみち、花の光は智慧をたたえ、鳥のさえずりも教えを説く国である。まことにすべての人々が最後に帰ってゆくべきところである。 しかし、この国は休息のところではあるが、安逸のところではない。その花の台は、いたずらに安楽に眠る場所ではない。真に働く力を得て、それをたくわえておくところの場所である。 仏の仕事は、永遠に終わることを知らない。人のある限り、生物の続く限り、また、それぞれの生物の心がそれぞれの世界を作り出している限り、そのやむときはついにない。 いま仏の力によって彼岸の浄土に入った仏の子らは、再びそれぞれ縁ある世界に帰って仏の仕事に参加する。 一つの灯がともると、次々に他の灯に火が移されて、尽きるところがないように、仏の心の灯も、人々の灯に次から次へと火を点じて、永遠にその終わるところを知らないであろう。 仏の子らも、またこの仏の仕事を受け持って、人々の心を成就し、仏の国を美しく飾るため、永遠に働いてやまないのである。 |
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♠永遠なる彼岸の浄土 |
まことにこの世界は、一方から見れば、悪魔の領土であり、欲の世界であり、血の戦いの場ではあるが、この世界において、仏のさとりを信じる者は、この世を汚す血を乳とし、欲を慈に代え、この世を悪魔の手から奪い取って、仏の国となそうとする。 一つの柄杓を取って、大海の水を汲み尽くそうとすることは、容易ではない。しかし、生まれ変わり死に変わり、必ずこの仕事を成しとげようとするのが、仏を信ずるものの心の願いである。 仏は彼岸に立って待っている。彼岸はさとりの世界であって、永久に、貪りと瞋りと愚かさと苦しみと悩みとのない国である。そこには智慧の光だけが輝き、慈悲の雨だけが、しとしとと潤している。 この世にあって、悩む者、苦しむ者、悲しむ者、または、教えの宣布に疲れた者が、ことごとく入って憩い休らうところの国である。 この国は、光の尽きることのない、命の終わることのない、ふたたび迷いに帰ることのない仏の国である。 まことにこの国は、さとりの楽しみが満ちみち、花の光は智慧をたたえ、鳥のさえずりも教えを説く国である。まことにすべての人びとが最後に帰ってゆくべきところである。 しかし、この国は休息のところではあるが、安逸のところではない。その花の台は、いたずらに安楽に眠る場所ではない。真に働く力を得て、それをたくわえておくところの場所である。 仏の仕事は、永遠に終わることを知らない。人のある限り、生物の続く限り、また、それぞれの生物の心がそれぞれの世界を作り出している限り、そのやむときはついにない。 いま仏の力によって彼岸の浄土に入った仏の子らは、再びそれぞれ縁ある世界に帰って、仏の仕事に参加する。 一つの灯がともると、次々に他の灯に火が移されて、尽きるところがないように、仏の心の灯も、人びとの灯に次から次へと火を点じて、永遠にその終わるところを知らないであろう。 仏の子らも、またこの仏の仕事を受け持って、人びとの心を成就し、仏の国を美しく飾るため、永遠に働いてやまないのである。 |
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仏教伝道協会刊『仏教聖典』より | ||
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