開 経 偈 | ||
無上甚深微妙法 むじょうじんじんみみょうほう |
無上甚深微妙の法は | この上ない、しかも大変深いお釈迦様の御教えは、言うにいわれず、説くにとけない上可思議かつ幽玄な法であります。 |
百千萬劫難遭遇 ひゃくせんまんごうなんそうぐう |
百千萬劫にも遭い遇ふこと難し | その法に、百千萬と言われるほどの、長い長い無限に近い時間をかけても、遭遇(あ)うことは難しいものであります。 |
我今見聞得受持 がこんけんもんとくじゅじ |
我れ今見聞し受持することをえたり | 私は今、幸いにも有難いお経を聴聞し、受け保つことができました。 |
願解如来真實義 がんげにょらいしんじつぎ |
願わくば如来真實の義を解せんことを | ただ願うところは、お釈迦様の示された真実の道理を理解することができますように。 |
(注) 「劫《には二つの喩えがある。 ○芥子劫・『阿含経』の中に説かれている劫の喩えで、方百由旬の城があるとして、その中に細かい芥子の実を一杯に詰めて、それを百年目毎に一戸づつ取り出し、その芥子の実が全部無くなっても、まだ長い劫の年月には及ばないという喩え。 *由旬・古代インドの距離の単位で、1由旬は7~9マイルといわれる。1マイルが1760ヤードで、約1.6093キロ。 7~9マイルは11.2651キロ~18.12892453キロ。 ○巨石劫・『瓔珞経』(ようらくきょう)の中に説かれている喩えで、方百由旬の大きな石があるとして、その石を百年目毎に、「迦尸輕輭(かしけいなん)の氈衣(せんえ)《といわれる、極めて軽く薄い絹の衣で一度づつ磨って、しかもその石が磨りつぶされ無くなっても、まだ長い劫の年月には及ばないという喩え。 *『中峰和尚坐右の銘』に「生死事大、光陰惜しむべし、無常迅速、時人を待たず、人身受け難し、今已に受く、仏法聞き難し、今已に聞く、此の身、今生に向かって度せずんば、更に何れの處に向かってか此の身を度せん《といわれております。今生で本当の安心を得たいものです。 |
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