HOME 仏教を学ぶ

懺 悔 文(さんげもん)
我昔所造諸悪業
がしゃくしょぞうしょあくごう
我れ昔より造りし所の悪業は
皆由無始貪瞋痴
かいゆむしとんじんち
皆無始の貪瞋痴に由り
従身口意之所生
じゅうしんくいししょうしょう
身口意よりの所生なり
一切我今皆懺悔
いっさいがこんかいさんげ
一切我れ今皆懺悔せり
このお経は『華厳経行願品』にある有吊な御文で、丁寧に三度お唱えします。
懺とは梵語(サンスクリットの称)の懺摩の意味で、正しくは當乞容恕(とうこつようじょ)と翻訳する。

容恕とは『毘奈耶律音釋』(びなやりつおんしゃく)に、過去世の罪業を厭い、仏法僧の三宝に忍受を求めるとか、容恕を乞うて、再び罪業を重ねないとある。

懺悔は仏道修行には大変大切なことで、私達の日常は惜しい欲しい、可愛い憎いの三毒五欲の塊で、特に貪瞋痴の三毒をいかに消滅させるかを念頭におく必要がある。

貪とは淫欲、財欲、食欲、吊誉欲等々数えあげれば切がないが、この貪欲によって身も、家も滅ぼしてしまうといわれるほどである。

瞋とは瞋恚であり、怒り腹立ちである。この瞋恚の炎によって、信用も功徳法財も焼き尽くしてしまうといわれる。

痴とは愚痴のことであり、おろか者のわからずや、自分勝手で我の強い者である。

しかし、この三毒は無始劫来生まれながらにそなわっている。古歌に「盗賊を心の内に置きながら 要慎しても無益なりけり《などと歌われているように、懺悔によって罪業が消滅するのでなく、唯一心に懺悔礼拝しそれによって湧き起る純粋無垢な無我の心を得ることが大切である。

現南禅寺管長の中村文峰老師の隠侍をしていた時、老大師に「三拝は何故するのか、どのような心境でするのか《と問われたことがある。返答のできない私に、老大師は黄檗禅師と唐の宣宗(せんそう)皇帝の有吊な問答の話を聞かせてくださいました。

それは、黄檗禅師が仏前にて頻りに礼拝されているので、宣宗皇帝が「仏に就いて求めず、法に就いて求めず、衆に就いて求めず、礼拝して何にかせん《と云われると、黄檗禅師がすぐさま「仏に就いて求めず、法に就いて求めず、衆に就いて求めず、礼拝すること唯斯くの如し《と云って一掌されたという話である。

私に礼拝するときは、黄檗禅師の如く唯一心に礼拝し、礼拝一つも「禅《そのものだと教えてくださいました。これでわかるように懺悔も、懺悔による功徳を求めるのでなく、一心に清浄無垢になって懺悔し経文をお唱えします。

*「十悪《・身口意の三業によって造る十種の罪悪。殺生、偸盗、邪淫、妄語、綺語、悪口、両舌、貪欲、瞋恚、邪見(または愚痴)の称。**広辞苑より

HOME 仏教を学ぶ