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梵 鐘

☆安住寺梵鐘(大分県指定文化財)

この鐘は、文和二年(1353)木付氏四代頼直公の発願により、鋳物師・上野実貞が鋳造した、大分県最古の和鐘です。

この鐘の特徴は、第一に撞座(つきざ)の配置が竜頭の方向に対して古式(直角)になっていること。

その竜頭の双方をつなぐ梁上に、三個の宝珠を配していることを第二の特徴としている。

第三の特徴は、各縦帯(たておび)左右の二条の紐が上帯に接する部分で、緩く曲線を描いていることです。

この鐘と同じ特徴を備えた鐘が、全国に七口程知られているが、そのうち五口は鎌倉時代から南北朝時代のもので、二口は十六世紀のものに 属している。

同じ作風になる、松山市・太山寺鐘(1383)の鋳物師・正悦がその肩書きに「豊後丹生荘」と記していることによって、安住寺の 鐘も、大分市丹生の鋳物師によって造られたことが推察される。

池の間の銘文によって、当時の八坂川の地形や、時々氾濫していたことなどを知ることができる。史実考証上有力な資料でもある。

高さ100センチ余、後景53.5センチで、梵鐘としては小さい部類に属す。昭和三十年、大分県重要文化財に指定される。

閻浮壇金観音(えんぶだごん)

★秘仏閻浮壇金観音略縁起

当寺秘仏観音は、印度ビシューギャーマの閻浮壇金をもって作ったと言う観世音像三十三体の一つ。

花山天皇の寛和元年(985)京都岩清水八幡宮の御神体を、当地若宮八幡宮に御勧請の折、安宗律師がみこし守護のため宝蔵秘仏観音 の尊像を授かり、八坂川河畔の小柏島にまつった。後にお堂を建て大安寺と称した。

ある時、観世音が安宗の夢に現れ「われ竜宮の化益に赴かんとす。わが空座に阿弥陀如来を安置すべし」と告げて、尊像は一夜のうちに お隠れになりました。安宗律師は、御告げどおり自ら阿弥陀如来を彫刻し、その後におまつりした。

その後六百有余年を経て、慶長元年(1596)杉原伯耆守殿、近松寺川にて御遊魚の折、奇しくもその網に観音の尊像がかかり、 時の古老の話から疑いなくも大安寺の秘仏ということがわかり急ぎ遷座され、殿様より田地の御寄付を賜った。これより寺号を観音寺と改めた。

その後再び観音像は見えなくなり、正保二年(1645)の頃、たまたま六軒町の高橋某、魚釣の餌を掘っている時、 砂の中から尊像を見つけ出し、松平英親殿御入国の際御公覧。信仰深い殿は、直ちに城内に岩観音を御相殿しここに安置した。

天和元年(1681)英親公と安住寺二世雪渓和尚とが、一夕霊夢を感じ「われ城内にあって結縁薄し、願わくば、廓外大安寺の 古跡に移らば普く衆生を利益せん」と御告げがあり、一宇を建立する旨雪渓に伝えた。雪渓答えて曰く「希有なるかな、公とわが夢符合 致したるが如し、公この意ならば速やかに御建立あってしかるべし」と。早速堂宇を造営し尊像を遷座したところ、不思議に岸下より 清水が湧出した。

その後、松平重賢殿の発願で大門を造営し、武運長久、国家安全、五穀豊熟のため寺領を増加。しかも、秘仏たるが由に一般大衆が 尊像を拝することができないので、幕府の許可を受けて三十三年を期し開扉することになった。

時代も移り、明治になって住職もなく堂宇もあれ、遂に観音寺は廃寺となった。明治十五年再興を試みたが成らず、安政五年の 御開帳を最後に、秘仏は本寺である安住寺に移された。

☆★御詠歌★☆
いわをの清水汲みてこそ 福寿も満ちて 千代やまもらん

***注***
1、閻浮壇金・金のうち最も高貴のものとされ、閻浮樹林を流れる河から採取されるという。想像上の金らしい。
2、小柏島・市内西下司区須賀の南、八坂川沿いにある岩山。
3、近松寺川・八坂川の旧錦江橋付近。

御本尊



















開山堂・天井龍図























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